M女への扉

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    調教という愛し方・愛され方

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    調教という愛し方

    写真:羞恥に歪む姿

    M女が、必ず強く持っている羞恥心。調教行為を受け容れるという、一見するとインパクトのある、その願望や行いと、相反する羞恥心の強さは、Mの源泉ともいえ、精神的根底にあるもの。


    羞恥心が強い故に、M性があるのかも知れない。サディストは、指一本触れずに、M女の羞恥心を突いていく。
    命ずることで、否応なく昂ぶるM性を理解し、利用する。
    恥ずかしい命令に俯きまがらも、眠っていたM性を呼び起こされ、敏感に反応してしまうマゾの血は、「服従」という選択をすることで応えるしかない。

    椅子に座り、黙って見ているだけで、多くの言葉を必要としなくとも、既に前戯は始まっている。羞恥心という内面にあるものは、調教行為の全てに共通する精神世界だ。
    羞恥心を擽らない調教は有り得ないし、度外視することも有り得ない。羞恥心は、M女の最たる内面的魅力でもある。
    羞恥に耐え、羞恥に歪む姿こそ、M女本来の美しさであり、サディストが愛して止まない所以だと思う。

    写真:緊縛されたM女

    縛られたM女の美しさ、その淫靡な姿は、まさに緊縛美というに相応しい。
    拘束された柔肌に麻縄が食い込み、羞恥に耐えるM女の姿は、その内面が醸し出され、より淫靡に映る。

    M女も又、自らの身体に麻縄を施されることで、持って生まれた被虐嗜好が否応なく反応してしまう。
    それは、性感帯や身体が刺激されているのではなく、脳が反応しているのだ。

    身体に這わされた縄で、身動きを封じられているが、脳は興奮と期待、不安と安堵を繰り返しながら、恥ずかしく縛り上げられた自らを、もう一つの心の目で見ている。
    縄に包まれていたい...、もっと縛られていたい...、縛られることで安堵し、縄に酔い、魅せられるM女。

    発する言葉とは裏腹な、そのM性が、緊縛を淫靡で美しく見せ、サディストに愛おしさと悦を与える。
    緊縛は、”M女の心を縛る愛し方”であり、そのM性を開放してあげる術なのだ。
    緊縛が調教の全てでは無いが、決して外せない手法のひとつであり、愛し方だ。縛られたM女は美しい.....、縄で着飾るのはSの役目ではないだろうか。

    写真:磔されたM女

    性的ノーマルな方なら、この様に、磔されることは先ず無いだろう。
    四股を拘束され、隠すことも許されないこの状況は、M女の被虐嗜好を刺激するのは当然とも言える。
    緊縛と比べ、身体への負担も比較的低く抑えられる磔は、拘束するという以外の責めを行う時間でもある。
    M女自身、きっとそう思っているであろうことは、容易に想像がつく。

    何をされるか分からない不安と期待....、M女の発する言葉ではなく、その反応と内面を覗き見ることで成立する愛し方なのは、緊縛や他の調教と、何ら変わるところは無い。
    Sが責め、Mが受け止めるというキャッッチボールは、行為そのものではなく、脳や心の中で行われているものである。
    顔を背けるその仕草は、こちらを見たくても見られないM心を表している。
    その仕草に彼女の内面を、より覗きたくなり、加虐の心がより一層増していくという、サディストの”悦”と自覚を認識しながら辱めは続く。

    写真:拘束台に乗ったM女

    縄や磔、その他様々な拘束系の調教で、最も安全で、最もM女が辱められるのが拘束台の上でだろう。
    経験豊富な方ならよく分かっていることだが、緊縛は、緊縛自体が責めであり、同時に某かの責めを行うには、安全上、適しているとは言えない。(※全く無いわけではありません。)

    このような拘束台は、様々な「責め」を行う目的のもであり、この台の上に乗るということは、完全に身を委ねていることを意味する。

    新たな性感帯を開発されたり、執拗に性感帯を刺激され、涙を流しながら幾度も逝き続け、粗相をしてしまうのも普通だ。
    ある意味に於いては、M女にとって、羞恥心を忘れさせてくれる、何もかもをかなぐり捨てなければいけない時間なのかもしれない。

    M女の悦や開放は、衣を纏い、装うのではなく、自らの恥部や心の闇を曝け出すことでしか得られない。本質的な部分、真実から目を背けていては、失うものはあっても、何も得られない。全てを曝け出してこそ、初めて”悦”とM性を開放することが可能になる。
    それが本来、M女が望む愛され方であり、Sの愛し方ではないだろうか.....

    写真:首輪と四這えのM女

    サディスト(私)の個人的見解なのだが、首輪が似合う人間は、M女以外にいない。

    私は、M女を犬扱いしたことも無いし、雌犬、雌豚云々も口にした事も無い。しかし、首輪を着け、四這えにさせてしまう。
    又、それを嫌がるM女も見たことがない。
    それが主従の象徴であるかの様に、当たり前に首輪を着け、四這えにさせ、蝋燭を垂らしたり、うしろを蹂躙する。

    首輪を着けたM女が美しのも、緊縛同様、日常隠していても、首輪を着けられた瞬間、そのM性が滲み出てくるからに違いない。
    人間は誰しも、美しいものを見ることを好む。趣旨、嗜好の違いはあれ、サディストとて例外ではない。

    M女が一番美しい時は、おそらく、どうしようもないM性が醸し出され、主であるパートナーに愛されている瞬間なのだろう。
    調教という愛し方、愛され方は、マイノリティーで不器用な人間の営みなのだと、つくづく思う。

    写真:剃毛されたM女

    自らの精神的幼稚さを自覚しながらも、M女を剃毛してしまう。
    無闇やたらと他に見せる所ではないだけに、余計に辱めてしまいたくなる。

    幼稚な独占欲であり、刻印なのだ。
    現在の世の中、剃毛したからといって、言い訳は何とでもなるのは分かっていても、辱め、マイノリティーな性癖を自覚させ、不自由と背徳を強いてしまう事を厭わない自分がいる。

    私はサディストであって、世に言う”変態”なので、ことの是非を論ずるつもりは更々なく、これが愛し方なのだ。

    愛してもいない女性を剃毛することは無いし、それを受け容れ、それ自体、自らの悦に結びつけるM女を愛する。
    嫉妬は弱さの表れだけれど、独占欲は”愛”だ。幼稚な独占欲だけれど.....

    写真:蝋燭を垂らされたM女

    M女の身体に、一滴一滴垂らされる紅色の蝋燭は、実に淫靡に映る。
    お仕置きとしての蝋なのか?、理由の如何に拘わらず、さほど熱くも無いハズの蝋に恐怖を感じ、耐える姿は、S心を擽る。

    蝋燭もまた、性感帯を刺激され、感じてしまうというものではない。
    一滴一滴垂らされる蝋は、M女の被虐心に垂らされる蝋であって、物理的な側面を責めているわけではないのだ。

    四這えや、アイマスクで視界を塞がれた状態での蝋燭は、何処に垂らされるかも分からず、蝋燭の高低差に依って、その熱さも変化させられるので、一層被虐心を煽られ、身体と脳がミスマッチし、トランスしていく。
    恐怖に耐えているにも関わらず、充分に潤ってしまうM女の心情は、愛おしいささえ感じる。

    緊縛だけが調教ではなく、M女の根底に眠る被虐心を目覚めさせ、開花させていくのもサディストの愛し方だと思う。
    ”愛するが故、垂らす蝋もある”ということだ。

    写真:鞭を打たれたM女

    スパンキングされて、感じてしまう女性は意外に多い。
    おそらくM性の表れなのだろうけど、その延長線上に”鞭”というツールを用いた行為がある。

    M女の熟練度やM性の強弱もさることながら、鞭を用いた愛し方は、素人が考えるより難しく、高度だ。
    鞭の種類や素材、使い方や打擲の強弱に依っても、只の暴力になりかねない。
    又、M女側の願望や許容範囲も千差万別で、高い洞察力が要求される。

    M女には、ちょっとした苦痛が快楽に変わる「間(ハザマ)」というものがある。鞭を打たれていても、その愛情を感じられる打たれ方、瞬間が存在するのだ。

     

    それはM女個人個人違い、その間を発見してあげ、間の少し上や下を責めていくのが、鞭に依る調教であり、愛し方。

    SM行為、調教に依る愛し方が、S方の自己満足や暴力であってはならない。愛するが故に、苦痛も与えるという行為は、高度なスキルと洞察力、深い愛情が必要だ。

    写真:アナルを開発されたM女

    M性の強い方であっても、M女として某かの調教経験のある方でも、うしろを調教される事に嫌悪感を感じる方も多いハズ。
    「汚い所」という、固定概念がそうさせるのであろう。

    勿論、きちんとした知識は必要なのだが、”汚い所”というカテゴリーならば口内や髪の毛、膣内であっても雑菌はあり、汚いわけです。

    私は、M女を調教する上で、きちんとした知識に基づいて、綺麗、汚いではなく、それら全てを受け容れるつもりで調教し、愛します。
    M女の身体全てを観察し、蹂躙し、支配したい欲求があり、うしろを辱めることを厭いません。

    余程、不潔な人以外、誰だって汚いものは嫌いであり、私も然りです。
    しかし、SがMを調教するという愛し方は、綺麗、汚い等の単純な尺度ではなく、行為そのものでもなく、闇に隠れて見えない精神世界が先にあるわけです。
    M女にとって、「全てを見られる」、「アナルを犯される....」という行為も、支配され服従するという、精神世界が重要で、綺麗、汚いは二の次です。愛するが故の調教は、もう少し高尚なものだと思います。

    写真:いたぶられるM女

    M女を辱め、甚振るという愛し方は、サディストにしか出来ない。
    被虐願望という、M女の心の闇に隠されている部分を理解し、Mとは相対する加虐性癖が無いと、決して成立しえないのである。

    M女が、「こんなに恥ずかしいのに、濡らしてしまっている...」、「こんなに酷いことされているのに....」と、自らが嫌悪するM性と対峙し、受け容れさせないと、調教と呼べるものではなく、M女としての”悦”も訪れない。

    拘束し、辱め、甚振り、数々の調教行為は、Sの欲求や願望を満たす為だけにあるのではなく、M女が精神的解放を遂げ、お互いがこの性癖を分かち合う目的であるべきものだ。

    どんな辱めや甚振りも、そこに愛情が無ければ、何の意味も無い。

    愛し方、愛され方

    ここで、調教のほんの一部を紹介しました。
    インパクトのある行為の数々かも知れませんが、調教とは、サディストの愛し方であり、M女の愛され方の一つです。
    そこに第三者が、口を挟む余地はなく、二人だけの世界。
    お互いがお互いを理解し、尊重し、身を委ねる側と受け止める側の、秘められた愛し合い方なのだ。
    二人だけの暗黙のルールと、高尚な精神世界だけが存在する。
    その愛し方、調教スタイルは、人それぞれ様々だが、この世で二人だけの淫靡でいて、秘密の愛し愛され方であると思います。

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